徳川家康の側室「お万の方」は2人いた?長勝院と養珠院の生涯や築山殿との確執の真相
徳川家康の生涯を語るうえで欠かせない側室の存在。その中でも特に歴史ファンの関心を集め、時に大きな混乱を生むのが「お万の方」と呼ばれる女性たちです。実は、家康の側室には歴史上極めて重要な役割を果たした「お万の方」が同名で2人存在します。
1人は、家康の次男であり悲運の猛将として名高い結城秀康の生母である「長勝院(小督局)」。もう1人は、徳川御三家のうち紀州徳川家の祖・頼宣と水戸徳川家の祖・頼房を生み、後世に絶大な影響を与えた「養珠院(蔭山殿)」です。大河ドラマ『どうする家康』でも描かれて脚光を浴びた正室・築山殿との緊張関係や、命がけで信仰を貫いた逸話など、同じ呼び名を持ちながら対照的な足跡を残した2人の実像を、史料の知見をもとに分かりやすく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:家康の側室「お万の方」には、結城秀康を生んだ長勝院(小督局)と、紀州・水戸家の祖を生んだ養珠院(蔭山殿)の2人が存在する。
- 要点2:長勝院は正室・築山殿の激しい嫉妬を避けて城外で出産したと伝わり、養珠院は家康に対して命がけで日蓮宗の高僧を救った女傑として知られる。
- 要点3:2人の生涯は戦国から江戸初期の過酷な権力構造と、その中で子孫を守り抜いた女性たちの高度な生存戦略を如実に物語っている。
【徹底比較】徳川家康の側室「お万の方」は2人いる?長勝院と養珠院の違いと家系図
歴史の記録や創作物において「お万の方」という名を目にした際、どちらの人物を指しているのか混同されるケースが少なくありません。まずは、この2人の素性、生んだ子ども、そして歴史的な立ち位置の違いを構造的に整理します。
| 項目 | 長勝院(小督局 / 於万の方) | 養珠院(蔭山殿 / お万の方) | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 主な別称・院号 | 小督局(こごうのつぼね)、長勝院 | 蔭山殿(かげやまどの)、養珠院 | 同通称だが院号と出自は明確に異なる |
| 生没年 | 1548年頃 〜 1619年または1620年 | 1577年 〜 1653年(享年77) | 長勝院が約30歳年長で、世代が異なる |
| 出自・家系 | 三河国神主・永見吉英の娘(知鯉鮒神社) | 安房正木頼忠の娘、母は北条氏康の娘 | 養珠院は関東名門・北条氏の外孫にあたる |
| 生んだ子女 | 次男・結城秀康(越前松平家祖) | 十男・徳川頼宣(紀州)、十一男・徳川頼房(水戸) | 徳川御三家のうち2家が養珠院の血筋 |
| 歴史的ハイライト | 築山殿の怒りを避け城外出産、秀康の自立を支える | 日蓮宗寺院・高僧(日遠)の処刑を命がけで阻止 | 共に強烈な芯の強さを持つ女性である |
家康の側室一覧の中でも、この2人は際立った存在感を放っています。長勝院は家康の青年期から壮年期にかけての苦境期を支え、養珠院は天下統一へ向かう晩年の家康に寄り添い、徳川一門の強固な土台を築き上げました。

【長勝院の波乱の生涯】結城秀康の生母となった理由と築山殿との確執の真相
結城秀康の生母である長勝院(小督局)の生涯は、まさに戦国時代の奥向きにおける過酷な力学を体現しています。三河国知立神社の神主・永見吉英の娘として生まれた彼女は、家康の正室・築山殿(瀬名)に仕える侍女(奥女中)として浜松城に入りました。
当時の史料や後世の軍記物(『幕府祚胤伝』『柳営婦女伝系』など)によると、容姿端麗で細やかな気配りができた小督局は、やがて家康の手付きとなり身ごもることになります。しかし、これが大きな波乱の幕開けとなりました。
当時、武家の奥を取り仕切る正室の権威は絶対的でした。特に名門・今川家の血を引く築山殿は気位が高く、侍女が密かに主君の子を宿したことに対して激しい怒りを露わにしたと伝えられています。築山殿の嫉妬と制裁を恐れた家康は、小督局を城外へ退去させ、重臣である本多重次や浜松の有力神職・中村源左衛門の邸宅へ預けました。天正2年(1574年)、小督局は城外の中村家住宅で男子(幼名:於義丸、のちの結城秀康)を出産します。
大河ドラマ『どうする家康』では、松井玲奈さん演じるお万が、戦乱に疲弊した家康の心を巧みに捉えつつ、自らの生存を賭けて立ち回るしたたかな女性として描かれ、視聴者の間で大きな話題を呼びました。劇中で見せた妖艶さと芯の強さは、単なる被害者ではなく、激動の時代を自力で生き抜こうとした当時の側室たちのリアルな一面を浮き彫りにしています。
於義丸は生まれつき双子であったという説(永見貞愛)もあり、また顔立ちが魚のギギに似ていたことから名付けられたとも言われ、家康からは長らく対面を拒まれるなど冷遇を受けました。異母兄である松平信康の取りなしによってようやく父との対面を果たしたものの、小牧・長久手の戦い後の政治的妥協として豊臣秀吉の養子に出され、のちに名門・結城家を継ぐことになります。
長勝院は常に息子の影となり、その波乱万丈の武将人生を支え続けました。秀康が関ヶ原の戦いを経て越前北ノ庄藩67万石の初代藩主となると、母である長勝院も越前へ移り住み、秀康の死後もその血統を見守りながら静かに余生を過ごしました。
【養珠院の不屈の生涯】紀州・水戸徳川家の母にして日蓮宗を命がけで守った女傑の逸話
もう1人の「お万の方」である養珠院(蔭山殿)は、徳川政権の屋台骨となる「御三家」の運命を決定づけた女性です。父は里見氏の重臣であった正木頼忠、母は小田原北条氏の当主・北条氏康の娘という名門の血筋に生まれました。北条氏の滅亡後、母の再婚相手である蔭山氏広の養女となり、その縁から家康に見初められて側室に迎えられます。
養珠院は才色兼備であっただけでなく、家康から絶大な信頼を寄せられていました。彼女が生んだ十男の長福丸(のちの紀州藩祖・徳川頼宣)と、十一男の鶴千代(のちの水戸藩祖・徳川頼房)は、家康の晩年における最大の愛蔵子となり、徳川の血統を末代まで維持するための重要な柱となっていきます。8代将軍・徳川吉宗は頼宣の孫であり、水戸黄門として名高い徳川光圀は頼房の子にあたります。つまり、江戸中期以降の徳川将軍家と水戸徳川家の血筋は、すべてこの養珠院へと繋がっているのです。
養珠院を語る上で欠かせないのが、熱烈な日蓮宗(法華宗)への信仰心と、それにまつわる「日遠上人救出事件」の逸話です。
慶長13年(1608年)、家康が主導した浄土宗と日蓮宗の宗論(慶長宗論)において、日蓮宗不受不施派の高僧・日遠が家康の意向に屈せず持論を曲げなかったため、家康は激怒して日遠を駿府の安倍川原で磔(はりつけ)に処すよう命じました。この決定を知った養珠院は、自らの信仰と師への敬礼を守るため、家康に対して決死の抗議を行います。
彼女は死装束を身にまとい、次のように家康に直談判したと伝えられています。
「師の命を救えないのであれば、弟子である私も法華経の教えとともに死を選びます。日遠上人を処刑なさるなら、まず私をお斬りください」
天下人である家康に対し、己の命と愛児たちの将来を賭けて真っ向から対峙した養珠院の気迫に、さすがの家康も処刑を断念し、日遠を赦免・追放処分にとどめました。この事件以降、養珠院は身延山久遠寺をはじめとする日蓮宗諸寺への手厚い外護を行い、女人済度(女性の救済)の象徴として多くの信徒から崇敬を集めることになります。

一般に知られていない盲点とネットの誤解|「側室一覧」から読み解く家康の女性観
現代のインターネット上や歴史ファンの間では、徳川家康の側室に関してさまざまな憶測や誤解が散見されます。一次史料や近年の歴史学研究に基づき、代表的な2つの誤解を是正します。
誤解1:「お万の方」は1人の波乱万丈な女性の物語である?
検索エンジンやSNSでは、結城秀康の出産劇と日遠上人の救出劇が混同され、「1人の女性が経験したエピソード」として語られてしまうケースが後を絶ちません。前述の通り、長勝院と養珠院は約30歳の年齢差があり、家康の側室となった時期も活躍した舞台も全く異なります。長勝院は三河・浜松時代、養珠院は伏見・駿府時代を中心とした人物です。
誤解2:築山殿は単なる「嫉妬狂いの悪妻」だったのか?
ドラマなどで強調されがちな「築山殿による陰湿な側室いじめ」という構図ですが、当時の武家社会における家族社会学的な視点で見直す必要があります。
戦国大名の「奥(奥向き)」は単なる私的な居住空間ではなく、家の秩序と後継者管理を統括する極めて公的な組織でした。正室の許可なく侍女に手をつけ懐妊させる行為は、正室が統括する奥の統制規律を乱す越権行為とみなされます。築山殿の怒りは、単なる個人的な嫉妬心のみならず、正室としての権威と家格を守るための制度的リアクションという側面が強かったのです。
【プロの結論】側室選定に見る家康のリアリズムと女性たちの自立戦略
家康という政治家は、側室選びにおいて単なる容姿の美しさ以上に「実務能力」「健康さ」「家柄のバランス」を重視したことで知られます。西郷局(2代将軍秀忠の母)や阿茶局(大坂の陣で講和交渉を担った重鎮)と同様に、2人のお万の方もまた、極めて強靭な精神力と現実的な処世術を備えていました。
長勝院は自らの不遇を嘆くことなく秀康を越前松平家の祖として立派に育て上げ、養珠院は宗教的アイデンティティを保ちながら我が子を御三家の藩主へと押し上げました。彼女たちは単なる権力者の受動的な愛妾ではなく、自らの意思と信念によって一族の生存領域を切り拓いた戦略的アクターであったと結論づけられます。
【実態検証】お万の方ゆかりの地と墓所をめぐる歴史の痕跡
2人のお万の方が残した足跡は、日本各地の寺社や旧跡に今も色濃く残されています。歴史探訪や現地調査において訪れるべき主要なゆかりの地を紹介します。
長勝院(結城秀康の生母)ゆかりの地
- 中村家住宅(静岡県浜松市中央区):国の重要文化財。長勝院が築山殿の怒りを避けて身を寄せ、結城秀康を出産した屋敷跡。秀康の「胎座盤(へその緒を切った石)」が今も保存されています。
- 長勝院墓所(福井県福井市・浄安寺 / 長勝寺):越前松平家の本拠地となった福井の地に、秀康と長勝院の菩提を弔う寺院および墓所が現存しています。
- 知立神社(愛知県知立市):長勝院の生家である永見氏が代々神主を務めた名社。長勝院誕生の地としての伝承が残ります。
養珠院(頼宣・頼房の生母)ゆかりの地
- 身延山久遠寺(山梨県身延町):日蓮宗の総本山。養珠院が寄進した「丈六堂」や、彼女を顕彰する「養珠閣」があり、墓所(廟所)も厳格に祀られています。
- 七面山(山梨県早川町):法華経の聖地。当時女人禁制であった七面山に養珠院が登詣し、結界を破って女性への登詣を開放したという「女人開山」の伝説が伝わります。
- 善光寺・妙法寺(静岡県富士川町・山梨県富士川町など):養珠院の発願によって開かれた寺院や、寄進された仏像・什宝が多数現存しています。

【徳川 家康 お 万 の 方】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:大河ドラマ『どうする家康』で松井玲奈さんが演じた「お万」はどちらですか?
A1:結城秀康の生母である「長勝院(小督局)」です。劇中では浜松城で家康の背中を流すシーンから始まり、家康の子を宿して築山殿(瀬名)と対面する緊迫したやり取りが描かれました。
Q2:結城秀康が家康から冷遇された本当の理由は何ですか?
A2:公式な史料では「双子で生まれた凶兆を忌み嫌った」「正室・築山殿への配慮」「顔立ちが魚に似ていた」などの俗説が記されていますが、実際には正室の承認を得ていない侍女の懐妊であったことや、当時の徳川家が織田信長との同盟関係の中で後継者問題に極めて神経質になっていた政治的背景が大きな要因とされています。
Q3:養珠院が日蓮宗のために家康を脅したというのは事実ですか?
A3:江戸時代の記録『養珠院実記』などに記された逸話です。日蓮宗不受不施派の高僧・日遠の処刑を命じた家康に対し、養珠院が白装束を着て「師を処刑するなら私を先に斬ってください」と命がけで直訴したと伝えられています。実際に処刑は中止され、追放に減刑されました。
Q4:2人のお万の方に血縁関係や直接の面識はあったのでしょうか?
A4:2人に直接の血縁関係はありません。長勝院は三河の神職の家系、養珠院は安房正木氏および後北条氏の家系です。年代的にも約30歳の開きがあり、大奥の前身となる空間で日常的な交流があった可能性は極めて低いと考えられています。
まとめ:激動の時代をしなやかに生き抜いた二人の「お万の方」
徳川家康という稀代の天下人を陰から支えた2人の「お万の方」。一方は、正室との確執や我が子の他家への養子入りという過酷な運命を受け入れながら、越前松平家の母として誇り高く生きた長勝院。もう一方は、天下人の権力に屈することなく己の信仰を貫き通し、紀州・水戸という徳川宗家を支える二大巨頭を育て上げた養珠院。
同じ名前で呼ばれながらも全く異なる軌跡を描いた2人の女性は、ともに厳しい身分社会の中で自らの存在価値を確立し、歴史を動かしました。家康の生涯や戦国・江戸の歴史を紐解く際は、この「2人のお万の方」が果たした対照的かつ偉大な足跡にぜひ注目してみてください。 (出典: 徳川 家康 お 万 の 方(Yahoo!ニュース))